トレーニング室

瀬田トレーニング室のストレングス&コンディショニングコーチ花田です。

ひと夏が過ぎ、風が涼しく感じられる季節となってきました。皆さんはこの夏をどのように過ごされたでしょうか?

強化サークルをはじめ体育局サークルの選手達は、秋のシーズンに突入しています。彼らは、大学の誇りを胸にこの夏取り組んだ練習成果を発揮し、大学の代表として臆することなく果敢なチャレンジをしてくれると信じています。

さて、先日プロ野球のセントラル・リーグでは広島東洋カープが25年振りのリーグ優勝を果たしました。私も学生時代を広島で過ごしたこともあり、広島東洋カープに愛着のある知人がたくさんいます。そのうちの一人で学生時代に関係のあった先生がSNSに載せていたゲイル・ホプキンス選手について感銘を受けました。そのゲイル・ホプキンス選手について書かれた記事をみつけたのでここに紹介したいと思います。

 

「鉄人」衣笠が憧れるタフな男(MSNジャーナル:2003年9月25日)

世界の「鉄人」衣笠祥雄が、自分よりずっとタフな男だと称える旧友がいる。衣笠の脳裏に焼きついているのは、その男が試合前のロッカールームで本を読みふけっていた姿だ。

スポーツファンには、それぞれ絶対に忘れられない場面がある。私の場合、イチローがメジャーわずか8試合目で見せた「ザ・スロー」が、脳裏に焼きついている。あれは2001年4月11日だった。1塁にいたオークランド・アスレチクスの俊足テレンス・ロングが、ライト前のシングルヒットで愚かにも3塁を狙い、イチローの鋭い返球に刺されたのだ。

そして選手自身にも、生涯、忘れられない場面がある。

先週、私は日本野球界の「鉄人」衣笠祥雄と、1975~76年に広島東洋カープで衣笠とともに戦ったゲイル・ホプキンスと会った。2人の思い出話は尽きず、静かに敬意を表したかと思えば、笑いが止まらなくなるときもあった。

衣笠は1975年シーズンを、昨日のことのように覚えている。

「ゲイルの入団が決まってすぐに、当時のジョー・ルーツ監督から、僕が10年間、守っていた1塁から3塁に移ってくれと言われた。ゲイルが1塁を守れるようにさ。でも、別に気にしなかった。だって、僕のほうがゲイルより足があって(守備範囲が広く)、肩もいいからね」衣笠はそう言うと、温かい笑顔を見せた。

ホプキンスはシカゴ・ホワイトソックス、カンザスシティ・ロイヤルズ、ロサンゼルス・ドジャースで7年間、メジャーリーガーとしてプレーした後、日本に来た。彼は衣笠に反論したりしなかった。

「そう、そう。僕はあまりに足が遅いから、『ゾウ足』と呼ばれていた。今でも電子メールのアドレスに、その名前(zoashi)を使っているよ」

野球選手になって、医師になって、宣教師になる

衣笠の伝説を知らない人や、よく覚えていないという人のために、彼の見事な実績をおさらいしておこう。1970年10月19日から87年10月22日に引退するまで、京都生まれの衣笠は2215試合に連続出場した。この数字は、96年6月14日にカル・リプケン・ジュニアが更新するまで、輝かしい世界記録だった。野球殿堂に名を連ねる衣笠は、23年間の現役生活で通算504本塁打、1448打点。84年にカープが4度目のリーグ優勝を果たし、3度目の日本一を達成したシーズンには、セ・リーグのMVPに選ばれた。

しかし衣笠がとりわけ記憶に残っているのは、75年シーズンだという。

「その年にゲイルがやって来て、僕たちは勝てるんだという信念を植えつけてくれた。(広島は)それまで一度も優勝していなかったんだ。ゲイルは体のあちこちを痛めていたのに全試合出場して、ホームラン(33本)と打点(91点)はチーム1位だった」

「あれはシーズン129試合目(10月15日)、後楽園球場でジャイアンツと対戦したときだ。9回表にゲイルが逆転の3ランを打ったとき、僕は優勝したと確信した。あの瞬間は絶対に忘れない。僕の野球人生で、まちがいなくトップ5に入る思い出だ」

もうひとつ、衣笠が昔のチームメイトについて忘れられない光景がある。練習や試合の前のロッカールームで、ホプキンスが生物学のテキストや医学書を読んでいた姿だ。

「ゲイル、ずっと聞いてみたかったんだけど、医者になろうと思ったのはいつごろ?」衣笠の目は、あこがれのスターに会ったときのように輝いていた。「プロの野球選手にも医者にもなれるなんて、どうしてそんなふうに思えたの? 日本では野球選手なら、目標はそれだけだ。僕にはずっと野球しかなかった」

「18歳でペッパーダイン大学に入ったとき、人生で3つの目標を決めた」とホプキンス。野球選手になること、医者になること、宣教師になること。そして、神のおぼし召しにより、3つとも達成できそうだ」

シーズン終了とともに医学校へ入学

実際、13年間の野球生活のあいだも、ホプキンスは勉強を中断することはなかった。現役中の74年には、生物学の博士号を取得している。75年から医学校へ進むつもりだったが、長年低迷していた広島カープがホプキンスを説得。1年契約には、75年シーズンの終盤に優勝は無理だと決まったらすぐに、日本を離れてもいいという条件が入っていた。ホプキンスは、9月には帰国して医学校の新学期に間に合うだろうと考えていたのだ。

ところが、優勝争いは広島を交えて最後まで白熱した。そしてホプキンスは、医学校に進む計画を延期したことを、今も後悔していない。

「あの1975年は、僕たちみんなにとって、本当に特別なシーズンだった。最後の巨人戦を終えて広島に戻ったとき、ある年配の男性が僕のところに来て、『もう死んでもいい』と言った。平日に急きょパレードをやったのに、40万人も集まってくれたんだ。僕たちは広島の市民に誇りを与えることができた。だから、帰れるはずがなかったよ。76年も広島で過ごすことにしたくらいだ」

76年のシーズンが終わるとすぐに、ホプキンスはシカゴのラッシュ医科大学に定時制で入学。77年も日本で南海ホークスのユニフォームを着た。引退後の78年から学業に専念し、86年に整形外科のドクター・ホプキンスとなった。

与えられた才能のすべてを最大限に生かすこと

そして、外科医として17年間、活躍したホプキンスは今年で60歳。第3の人生を歩もうとしている。

「フルタイムの外科医は引退して、10月1日からは、ウエストバージニア州にあるオハイオ・バリー・カレッジという小さなキリスト教系の大学で、生物学の教授になる。これが僕にとっての宣教師の道だ。たぶん野球チームも手伝えるだろう。今週、学長のロバート・スティーブンス博士といっしょに日本へ来たのは、日本の学生を呼ぶためだ」

かつては世界一タフな野球選手だった衣笠は、この旧友は自分よりずっとタフで、少なくとも精神的にははるかにたくましいと感心していた。

「僕にはとてもできないよ」衣笠は何度も言った。「2つや3つの分野のトップレベルで抜きん出るなんて、日本ではありえない」

だが、ドクター・ホプキンスは「できるはずだ」と言う。75年に広島が優勝したときのヒーローは以前、次のように語っていた。

「日本でも、まちがいなくスカラー・アスリート(秀才アスリート)になれたと思う選手に何人か会った。頭脳はまったく問題がなかった。ただ、彼らは野球しかやっていなかった。ちょうど会社員みたいだね。昼も夜も会社に身をささげ、家族との楽しい生活を犠牲にしても仕方がないと思い込んでいる人たちだよ」

「日本のチームメイトも友人も、バランスの取れた生活を送っているようには見えなかった。すべてのエネルギーを、たった1つの目標に注ぎ込んでいるみたいだ。悲しいことだね。神様は、すべての人にさまざまな才能を与えてくださっているのに。与えられた才能のすべてを最大限に生かすことは、僕たちの義務なんだ」

 

 

みなさんはこの記事を読んでどのように感じられることでしょう?彼と同じように考える人もいれば、一つの道に専念するという人もいるでしょう。どちらにしても自分の目標を掲げ達成するために「やり抜く」ことが大切ではないでしょうか?苦しいことや辛いことなど止める理由はいくらでもみつけられるでしょう。それでもやり抜く姿勢や取り組みをスポーツから学んで欲しいと思います。

今、私は端艇部のコーチに教えてもらった「Grit-やり抜く力」という本を読んでいます。また感銘を受ける内容があれば紹介したいと思います。

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